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稲葉振一郎『新自由主義の妖怪』(亜紀書房、2018)

稲葉振一郎『新自由主義の妖怪』(亜紀書房、2018)
20世紀の重要思想であったマルクス主義とケインズ主義について、保守本流自由主義思想や産業社会論をもちいて位置付けながら、返す刀で「新自由主義」を打つという著作。産業社会論の墓碑銘となっている。
構造としては、マルクス主義(社会主義)と保守本流自由主義思想(資本主義)を対峙させ、保守本流自由主義思想(資本主義)の総合的社会科学として産業社会論(村上泰亮を含む)を位置付ける。しかし、マルクス主義も産業社会論も、二つの20世紀後半から末の実証的事実によって反駁される。一つ目は、マネーの管理であり、これを述べていたのがケインズ主義であった。二つ目は、技術革新における市場と競争の大きな役割であり(ヘルプマン=グロスマン)、公的部門が大きな役割を果たすと想定していた産業社会論はここで破綻する、という。
マルクス主義は批判理論として生き残り、産業社会論は絶滅した。保守本流自由主義思想には総合的社会科学がなくなった。その間隙に入り込んでいるのがいわゆる「新自由主義」ということ。但し、「新自由主義」には総合的社会科学のビジョンは無い。なぜならば、市場に任せればうまく行くので考える必要はない。
稲葉は、共和主義の復興、リベラルな共和主義を提唱する。AIのもとBasic Incomeで国民を有産にして、voiceを促進しようという。そのvoicesがtweetsでない保証はどこにあるのだろうか。
教育システムについては、欧米では、小学校中学校という産業社会を動かすための教育パーツと、元々あった大学を高校(予備門など)で結びつけるという形で教育システムはできあがった。新しいgeneral purpose technologyの程度に応じて教育システムも変革の必要性があるだろう。
アセモグルの経済成長モデルを、ロバート・アレン(+ダニ・ロドリック)の経済振興の歴史にもう一度寝かして、そこから総合的社会科学をもう一度構想する可能性。
新自由主義については下記の引用で十分だろう。
『「新自由主義」のイメージのでっち上げの主犯は、当の「新自由主義」的潮流に属する人々以上に、そこに資本主義の新段階を見出したい、更に批判すべきわかりやすい対象を見出したい、マルクス主義者たちなのではないだろうか?』(p.158)
ということで、<新自由主義>に拘泥する意味はほとんどない。保守本流自由主義の総合的社会科学の構想には意味があろう。
ここを『異端の時代』で示された正統と異端の図式にあてはめることができるか?もしそうだとすれば、マルクス主義の異端の「遅れ」こそが問題になろう。
あとは「疎外」の再発見(p.309、312-)。『近代以降の巨大で複雑な、専門化と分業を発展させた社会は、システムとしてうまく機能しているにもかかわらず、というよりもそれゆえに、人がそれを「社会」として、つまりは自分たちが共同で作り上げる関係性として感じることを難しくしているのです。』(p.309)
新自由主義批判がマルクス主義の「ためにする批判」であれば、ポピュリズム批判もXXXXによる「ためにする批判」である可能性はないか?XXXXとは保守本流自由主義?それよりもう少し実態のあるもの?

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