« September 2017 | Main | January 2018 »

映画『HERO』(2007年公開)と『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』(2016年公開)を観る。

映画『HERO』(2007年公開)と『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』(2016年公開)を観る。
何十年前に無くなったか知らないが、その昔の民放では、年末の深夜に映画をやっていたものだった。おそらくはテレビ番組を作らずに映画を流していたような気がする。いま新聞のテレビ欄を見ると映画が見当たらないので、そういう慣習はなくなったようだ。本来ならば、『その頃に〇〇や××を観て、、、』という話になるのだろうが、実際はほとんど観なかった。記憶にない。
今年の深夜はケーブルの日本映画チャンネルで、二日連続で映画を観てしまった。映画『HERO』(2007年公開)と『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』(2016年公開)。HEROは、いわゆるキムタク主演のオールスター・キャスト映画。記憶に残ったのは木村と松たか子の掛け合いでも、松本幸四郎のかっこ良さでもなく、古田新太の怪演でもなく、釜山の山に広がる家並み、そして食堂の様子。リオ・デ・ジャネイロのファベーラみたいじゃない、と思わせる山に広がる家々を登る主人公の二人、その後に釜山の混雑した食堂でご飯を食べようとする二人、この風景はちょっと面白かった。釜山はいつの日か博多から船で行きたい所だったが、ランク・アップしました。
もう一つ、興味深かったのは香川照之がさっぱりと演技していたことだった。2011年に歌舞伎にも出演することを発表した香川であり、この一年はテレビで観ると、あまりにも濃い演技が印象的であるだけに、この薄口の演技は面白かった。
そういえば、香川=中車がそうであるように、獅童(守り人)、右団次(陸王)、海老蔵(大河)のように、多くのドラマには一人ぐらい歌舞伎役者が入って、濃い演技を披露している。
さて、歌舞伎役者が誰も出ないと思っていたら、獅童が一瞬出ていた『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』だったが、本で言えば、page-turner度が高く、最後まで見ることができた。調べてみると、監督の宮藤官九郎はこんなことを言っていた。
『イベントでは観客との質疑応答のコーナーが設けられ、中でも子供から「なんでこの映画を作ろうと思ったんですか?」というシンプルな質問が。宮藤監督は「そうだよね。ふざけてる場合じゃないよね(笑)」と笑いながらも「真面目に答えますと、死ぬとか生きるとか扱ったコメディがやりたかった。死んだ時にあんなところに行けるならいいやと思えるような映画を作りたくて、この映画を作りました」と本作への想いを語った。』
そう、楽観的な映画だった。

| | Comments (2)

「維新革命」への道―「文明」を求めた十九世紀日本―

各章の結論が、各章の末尾に書いてあるので、えらく読みにくい。こういうサスペンス形の文章を読めない頭になってしまったのか。ヤレヤレ、リカレント教育が必要だな。

本書を読む便益の一つは、著者が読む2000年代に出版された文献を知ることである。それらを繋ぎ織り込みながら、著者は議論を進めていくので、一つの文献外題にもなっている。

大政奉還よりも廃藩置県を重視する意図がよくわかって面白い。

【目次】
序章 「諸文明の衝突?」から四半世紀
二〇一七年に「諸文明の衝突?」を読む
「和魂洋才」の罠
「民衆不在」の罠
異なるものと共有されたもの
第一章 「維新」と「革命」
まだ「維新」がお好きですか?
「王政復古」の大令
「明治革命」のまぼろし
「神武創業之始」とはなにか
「其の命、維れ新たなり」
なぜ「維新」が選ばれたか
第二章 ロング・リヴォルーション
明治の「革命」史
「封建制度」から「新日本」へ
ロング・リヴォルーションとしての明治維新
第三章 逆転する歴史
文明史という衝撃
尚古主義の転倒
第四章 大坂のヴォルテール
朝鮮通信使の驚き
町人の学校、懐徳堂
「日本のヴォルテール」富永仲基
第五章 商業は悪か
経済発展と儒学思想
富の追求
反商業主義の黄昏――荻生徂徠と太宰春臺
第六章 「経済」の時代
「経済」人、山片蟠桃
語られないもの、語れないもの
旅する儒者、海保青陵
第七章 本居宣長、もう一つの顔
吉田健一と本居宣長
商人社会の思想
「物のあはれ」の寛容論
第八章 新たな宇宙観と「勢」
本居宣長と蘭学
『三大考』という事件
「皇国」の特権化と「勢」
第九章 「勢」が動かす歴史
「古層」論をこえて
頼山陽と封建・郡県問題
歴史ブームと祖先顕彰
変転してゆく「大勢」
第十章 「封建」よさらば
「封建」と「廃藩置県」
「王土王臣」と水戸学
西洋の「仁政」と「公論」
第十一章「文明開化」のおとずれ
無限の宇宙と無限の進歩
「郡県」と「開化」
「自由」と「進歩」のゆくえ
あとがき

【ノート】
序章:「和魂洋才」論は、なぜ和魂が洋才を求めたのか?そこには和魂が洋魂(「文明」)を求めた点はなかったのか?異質な文化どうしで共有できる<文明>とは何なのか?19世紀の日本列島住民は、それを同時代の西洋文化のなかに見出したからこそ、その産物である政治制度やその根底にある思想(洋魂?)に憧れ、みずからの文化のうちに受容しようと試みた(p.38)。

第一章:「維新」という表現は、言葉の上で「革命」との相性が悪いようである(p.56)。→本書の題名が興味深い。

第二章:福澤の理解では(中略)表面上は尊王攘夷の言論が公儀を倒したように見えるが、その動きを支えていたのは、徳川時代のあいだに積もりに積もった、世襲身分制への批判だった(p.74)。

第三章:「文明」の進歩を語ること。人類は無限に向上し続けるのだと信じること。それは、福澤諭吉ら洋学派の知識人たちが、西洋の文明史の叙述に触れることを通じて抱くようになった、新しい歴史観であった(p.85)。

西周に見られる尚古主義に支えられた旧来の思想の言葉と、新しい歴史観の共存(p.92)。

第四章:17-18世紀の経済の発展(p.97)。商人の学問。荻生徂徠の方法(p.106)。山方蟠桃(やまがたばんとう)の『夢の代』(p.107)。本居宣長の素朴な進歩史観(p.111)。

第五章:富の追及は一種の「考」の実践(p.121)。堂島米相場の商人たちの思想(p.124)。人々が「金銀」「銭」によって生活の用を足すようになった「今」の「風俗」に適応せよと言うのである(p.130)。

第六章:山方蟠桃の『夢の代』1820年(p.135)。商業を通じた富の追及が、むしろ他者を救おうとする倫理の支えになりうることを示唆している(p.143)。

第七章:西洋の「文明」の受容に至る前史を徳川時代の思想史にたどろうとする本書(p.158)。社会全体の「時世の勢」もまた、こうした個々の「人情」の働きが無数に寄り集まって生まれる(p.165)。

第八章:統治者は、その「時世の勢」を見すえながら、「勢」の現在での発展段階に応じた政策を考えなくてはいけない。

第九章:頼山陽と「勢」(pp.199-200, pp.206-207)。伊達千廣と「勢」(p.212)。

第十章:「王制一新」と「廃藩置県」とのあいだに三年半の月日(p.223)。會澤正志斎と経済政策(p.230)。十八世紀末以降、蘭学者をはじめとする日本の知識人たちがヨーロッパの風俗を紹介するさいにまず注目したのは、病院・孤児院・救貧院が整備されていることであった(pp.234-235)。

第十一章:開国と混乱状況(p.255)。「開化」の暴走(p.259)。「自主任意」と自由(p.264)。徳富蘇峰(p.266)。

【思い出した文献】
Hirschman, The Passions and Interests.
Paz, Tiempo Nublado.

| | Comments (2)

« September 2017 | Main | January 2018 »