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逆櫓メモ

2017年秀山祭九月大歌舞伎、昼夜。

夜の部の一番目が逆櫓だった。 筋書によれば1739年四月竹本座で初演されたとある。なぜこれが秀山祭で取り上げられるかというのは、三つに分けられる。第一、なぜ大阪でこの演劇は受けたのか。第二、なぜこの演劇は東京で受けたのか。第三、この演劇と初代中村吉右衛門との関係は?

第一、当時の大阪は商人の町であった。支配階級は武士、侍であったけれども。つまり、町人の論理・感情に、武士・侍の論理と感情が入ってきたらどうなるか?という試みが逆櫓なのだ。船頭とは商人であり、農民でも漁民でもない。おそらく、町人の世界では子供の取り違いというのも時々はあったのだろう。そういうなかで、取り違えられた子供が武士の子供であったというところから、武士・侍の論理と感情が入ってくる。そこに、樋口の見表しがあり、義経、梶原。主人の子供は殺せないということになる。そして、樋口は武士・侍でありながら、町人の論理・感情もわかるのだ。そこに共感がある。

元々は町人の「情」 vs. 武士の「論理」と思っていたが、上記のように当面は書いておきます。

第二、上方芝居がどのように江戸で受け入られたかについては、2017年10月演劇界p.10に出てくる古井戸秀夫『江戸の並木五瓶』を参考に、いつか勉強することにする。ここでは、江戸が東京になった時に、ある程度は東京は大阪になったのだということを指摘したい。つまり、侍の町ではなくなったのだ。近江商人も入ってくるし、江戸は大阪化して東京になったのだ。ここにおそらく9代目團十郎から初代吉右衛門に繋がる人気の系譜が見えてくる。吉右衛門は9代目の芸を受け継いだと言われるが、おそらく逆櫓は9代目の芸ではなく、吉右衛門の芸であると思う。お父さんが上方役者であった歌六である吉右衛門は上方風味を出しながら、この上方芝居を大阪化した東京に持ってこれたのだ。

つまり、松井今朝子『歌舞伎の中の日本』で言えば、第3章寺子屋になるのだが、松井を広げるとすれば、それぞれの章で表された演目が当時をどのように表したかだけでなく、なぜ以後にも支持されるという意味で残ってきたのかが大事だ。それは、家の中での代表芸という供給要因もあるが、需要要因も大事だろう、ということだ。

第三、初代の芸は技巧が重んじられるが、おそらく初代の得意とした題目の昭和初期までの東京との関係性も大事だと思う。現在の東京において、逆櫓の町人の論理・感情にも、侍の論理・感情にも観客は同化しない。それを私のものとして感じることが難しい。

2代目吉右衛門の逆櫓は素晴らしい。それは町人の論理・感情を構築し、そして侍の論理・感情も構築し、その上で芸を発揮するという構成になっている。

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