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新しさを望む:人はなぜ経験してもいないものを懐古するのか

 歌舞伎において偉大な作家である鶴屋南北河竹黙阿弥は、しばしばその作品の内容から、いずれが新しい作者であるのかを現代人の観客から混同されるという。18世紀後半から19世紀初頭の純然たる江戸後期(文化文政期)の作家である南北(1755-1829)と、19世紀の幕末から明治にかけての作家である黙阿弥(1816-1893)では、やや生きた時代は重なるものの、劇作家としては明確に南北は古く、黙阿弥は新しい。しかし、南北の作品が「新しく」感じられ、黙阿弥の作品のほうが「古く」感じられることが多い。それは、南北の作品が現代にも共通するような複雑な筋と登場人物の造形をもっているのに対し、黙阿弥の作品は七五調のうたうようなセリフ回しと様式的な構造を特徴としているためだろう。「東海道四谷怪談」(1825)の新しさと、「髪結新三」(1874)の古さなのだ。
 なぜ我々はこのように混同するのだろうか。私が思うに、それは懐古する作品を読む時、我々は古く感じてしまうのだ。「髪結新三」で黙阿弥は、明治初期の東京から江戸の情緒を描き出している。それは近しい過去なのだ。その黙阿弥の筆に現代の観客も運ばれていく。そのベクトルに沿って、我々は懐かしさを感じてしまうのだ。そして、懐かしいものは古いのだ。古いものが懐かしいのではない。もう一度言う。人にとって懐かしいものが古いのだ。
 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社)は、同じような「懐かしむ」効果を多くの(中高年の)読者に与えている。それは、渡辺が意図した主題とは似て非なるものだと思う。『私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ』と渡辺が書く時、その意図には過去を懐かしむ心映えより、厳密に現代と過去を比較して把握しようという分析的意志が感じられる。情緒は二の次だ。しかし、渡辺が収集する外国人達の筆致が日本を見て過去を「懐かしんでいる」ために、どうしても読者はそのベクトルに沿って過去に運ばれていくのだ。そして、自ら体験も経験もしていないものを懐古する。
 元世界銀行副総裁である経済学者の西水美恵子氏は7月15日毎日新聞朝刊のエッセイで『「雷龍の国」ブータンに旅をして「懐かしかった」と言う人が多い。私も、かつてはその一人だった。』と始めている。そして、『異邦に感じる望郷の念。その謎を、近代化を急ぐ過程でわが国が失った文明を描いた「逝きし世の面影」(渡辺京二著)が解いてくれた』と言う。すなわち、『読み始めてすぐ、ああこれだとひざを打った。ブータンに、日本の「逝きし世の面影」を感じたから、懐かしかったのだ。』『次から次へと登場する外国人の姿がブータンでの自分に重なった。彼らの眼に映った19世紀日本が、私が見た20世紀ブータンに気味が悪くなるほど似ていた。』と言う。
 そして、渡辺の文明の定義を引きながら、彼女の筆は文明論に向かう。『固有文明への帰属意識は国民のアイデンティティーそのもの。人生のほとんどを海外で過ごしてきたせいか、この帰属意識こそ日本人としての安心感の礎だと、常々感じている。その固有文明を失い、しかも失った文明が人間の幸福追求を可能にするものだったなら、わが国が近代化を目的に選んだ術の代価は大きい。』『アイデンティティーを持たない民は、国籍などいとも簡単に超越する。ブータンは政治の安定と高度成長を保つが故に、新天地を求める近隣民族に乗っ取られる可能性を危惧する。日本にはその逆、政治と経済の低迷に後押しされる人材流出が国家経済を空洞化するリスクがある。企業の海外流出が問題化する今、微少でもゼロのリスクではない。』『この数年来、スーパーシチズンという呼び名の国籍を超越する中産階級が、世界中で増えている。人作りが国作りではなくなる21世紀のグローバルリスクだ。その到来に、わが国の政治家が気づいている様子はない。水が出た後、水路を造るつもりなのだろうか…。』と締めている。
 西水氏は、自らが一員たるスーパーシチズンの意見表明として、今後も多くの「退出」が行われると(ハーシュマン風に)脅迫していると、私は解釈している。そう、彼女こそスーパーシチズンだ。彼女がパートナーを務めるある団体のサイトでの紹介によれば、彼女は『長年住み慣れた米国首都ワシントンに、英国人の夫ウイッカム氏と在留を続けるが、自称「第二の故郷」イギリス領バージン諸島で執筆に専念する日々が多い。日本と、「立ち去ることを許してくれない」ブータンに通勤しながら、世界中をインターネットで駆け回っている』のだという。これこそ、彼女の言う「国籍を超越する」スーパーシチズンの振る舞いでなくてなんだろう。そういう彼女の見立てが正しいとすれば、現在の「グローバル人材」を育てようとする教育行政の方向は皮肉なものだ。政府がスーパーシチズンを育て、スーパーシチズンは日本を見捨てることになるだろう。
 私は西水氏の意見に与しない。それは、スーパーシチズンたる西水氏こそ日本の今後、若者の今後に積極的に発言しているからだ。彼女は、たとえ自分がスーパーシチズンであっても例外だというだろうが、私はそれにも与しない。彼女は例外ではない。日本を19世紀末に訪問し記録を残したのはスーパーシチズンversion Xだ。スーパーシチズンの特徴だから、あれだけ記録が残っているのだ。彼女はversion X+1である。私はスーパーシチズンこそ、文明を守ろうとする言論を張るのだろうと思う。そもそも、ブータンで懐かしさを感じ、自分が暮らしたこともない19世紀の日本を、20世紀のブータンと重ね合わせようという彼女のベクトルの方向性こそがスーパーシチズンの特徴だと思うからだ。国民のアイデンティティーが無くても、スーパーシチズンには個人のアイデンティティーが必要だ。そして、個人のアイデンティティーには必然的に大枠としての文明が付きまとう。
 我々が対峙しているのは、オリエンタリズムではない。自分が体験していない過去の事象を懐かしむというもっと普遍的な行為なのだ。それを追体験したければ、現代の歌舞伎劇場で黙阿弥の「魚屋宗五郎」(1883)を観よ。坂東三津五郎が演じる宗五郎を観れば、自分が体験していない過去の事象を懐かしむことができるのだ。
 この文章で、読者の皆さんとできれば共有知識としたいことは次のこと。我々人間は見たこともない過去を懐かしむ。そして、懐かしいものは古く感じる。それが人の本来の感傷だ。そして、私が多くの人と共有したい方向性とは次のこと。そういう人の心の普遍的な働き具合を前提として、世代を超えて議論していこう。新しい価値観を発見していこう。なぜなら、これから作るものこそが新しいからだ。それは、南北風であっても、黙阿弥風であってもいい。Let us be constructive!

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