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応仁の乱の頃の京都の人口

応仁の乱~戦国時代前期 応仁の乱に先立つ長禄・寛正の飢饉では、『碧山日録』によると寛正2年(1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人の死体が数えられ、鴨川の水流が死体で堰き止められるだったという。 応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰塵に帰したとあり、チャンドラーは乱直前の京都の人口を15万人と推定している。[1]なお1471年の『海東諸国紀』は京都の戸数を20万6千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口の間違いかもしれない。 碓井小三郎やチャンドラーは応仁の乱が終結した文明9年(1477年)の京都の人口を、4万人と推定する。[18][1] 戦国時代の京都の町並みは、上京と下京が室町通1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半の京都の人口については、チャンドラーのように4万人と低く見積もる説[1]から、高尾一彦らのように20万人近くと高く見積もる説まである。[11] 『後慈眼院殿記』によると、明応3年(1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年(1500年)には上京が被災し、焼失した家屋は1万5000軒から4万軒と、文献によって数字が異なるが、原田伴彦はこの時期の京都の人口を2万戸10万人と推定する。[12]一方高尾一彦らは15世紀末の京都は、上京6000~7000戸、下京1万~1万数千戸の合計2万戸10万人の商工民人口がおり、これに公家、武士、寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所、河原人口を加えれば、上下京の人口は合計15万~18万人に達したと推定している。[11]

from Wikipedia

Tertius Chandler, Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census, Lewiston, NY: The Edwin Mellen Press, 1987.

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