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『経済学は道徳劇ではない』(過日のSF鼎談への独善的感想)

 Economics Is not a Morality Play (Krugman's blog).  先日のSF鼎談を私なりに乱暴に振り返るのが「I氏に御挨拶だけでもすればよかった」との多少の反省の昇華。T氏はベーシック・インカム論を「面白く、もっとこの話題を深めるといいように」思ったとのこと。一方、I氏は事前メモをアップされ、そもそもSFとはという議論についても態度を決めてから臨まれていたことを明らかにされている。これに対してY氏は中東で購入されたアクセサリーで武装(?)して臨まれるというトリック・スター風の態度で貢献された。このあたりが、職業としての学者とそうでない人の違いかもしれない。

 T氏がY氏との遭遇について、Y氏が訳されたKrugmanの訳業を授業で使われた際の経験を紹介され、また、ハリ・セルダンについてKrugmanが憧れた件をどなたか(Y氏?)が触れたことにも表れているように、一つの伏線がPaul Krugmanにあったことが鼎談の冒頭で披露されていたように思う。

 そこで、タイトルにあるように『経済学は道徳劇でない』というKrugmanのブログ・ポストである。一部を抜き書きしよう。

But maybe this is an opportunity to reiterate a point I try to make now and then: economics is not a morality play. It’s not a happy story in which virtue is rewarded and vice punished. The market economy is a system for organizing activity — a pretty good system most of the time, though not always — with no special moral significance. The rich don’t necessarily deserve their wealth, and the poor certainly don’t deserve their poverty; nonetheless, we accept a system with considerable inequality because systems without any inequality don’t work. And before the trolls jump in to say aha, Krugman concedes the truth of supply-side economics, that’s not an argument against progressive taxation and the welfare state; it’s just an argument that says that there are limits. Cuba doesn’t work; Sweden works pretty well.

善悪ではない。善悪の彼岸にある。彼のマクロ経済学の勘所はここにある(ミクロでもそう、戦略的貿易政策で反省し、経済地理では政策論議に入らないように自制していたとのこと。by F田先生)。これは、経済学が道徳科学であるべきか否かという古い問題とはおそらく異なる。そして、この「善悪の彼岸性」をもっとも端的に表わしてくれるのがSFだというのが私のSFについての特徴付けの一つである。ある仮定のもとでのシステムの実証性を議論するのがSFなのだ。もう一つは、Y氏のお母さま(息子にウルトラマンは禁じ、銭形平次を許すと言う興味深い基準の持ち主)がSFに浸っていたY氏に喝破したという『SFとは、最初の仮定で決まるのだから、面白くない。』という発言に現れる特徴である。つまり、喜劇でのSituation Comedy (Sit-Com)と同じく、ある科学風の突飛な設定をおき(人間が複製できる、等)、そのもとで「人間」社会がどのように進むのかを描くというものである。おそらく、Y氏のお母さまは経済学の理論論文を同じように喝破されるだろうし、それは理論経済学のセミナーでの大御所先生たちの態度とほぼ同じである(その昔のU沢先生は仮定を見ただけで論文のストーリーが全ておわかりになられたとのこと)。

そういう実証性がSFの真髄であれば、権利をSFに絡めて話すことは本筋ではないだろう。それは、『二都物語』のような都市貧困小説により親縁性をもつだろうし、人権とは『わたしを離さないで』のようなSFの覆いをまとった小説にこそ現れてくる。とはいえ、ロールズの「無知のヴェール」とはほとんどSFのような雰囲気を持っているし(生前に母体の中で赤子がそういう判断をして生まれるかを自己判断する世の中を設定すればいいだろう→中絶ではない生前の胎児の自殺という問題)、正義を実証的に扱う可能性をSFは持っている。

SFはフィクションであり、絵画が写真によって印象派風に進まざるを得なくなったように、全てのメディアとの競争の中で、芸術性を求めざるをえなくなった側面はある。それでも、SFのSFたる所以はやはりその実証性にあるように思う。

経済学を奥深く知る社会学者であるI氏が、その実証性ではなくSFの芸術性(官能性)を強く打ち出して鼎談を挑発するのは正しいし、そこで聞き手の独善的な好みから言えば、T氏には(権利論ではなく)実証性を元に挑発に乗ってもらいたかったと思う。そしてそのときに、最もSFのファンでありそうなY氏がどのような態度を見せるかが楽しみだった。その片鱗はファン・サークルについての発言に現れていたような気がする。なぜお母さまに喝破されても、これまでSFをY氏は読んできたのか、それは芸術性にのみに還元されるのか。SFがもつ「secularな連携性」についてもう少しY氏が暴走してくれると、さらに先達から勉強になったような気がする。なぜゲームがSFから主題をとるのかという点にも関わってくるだろう。そういう点を含めて、議論を先導・誘発してくれた三人の先達に感謝する。

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