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バザール関連

 たまたま手に取った紀伊国屋書店のPR誌『scripta』2007年夏号(no.4)に長谷川一というメディア研究者の「機械と身体の縫合域」という連載があり、その第四回が『ながめてまわる:買い物というアリーナ』と題されている。パムとケロという絵本シリーズから始まり、<おかいもの>に移り、買い物が旅行に似ていると述べ、「ながめてまわる」行為が、バザールのようなタイプの商取引とは似て非なる場であると主張し、ギアツからバザールを紐解き、情報の非対称性に話が移り、「ながめてまわる」市場はスーパーマーケットであるとdouble meaningで洒落て終わるというエッセイであった。

 さて、現代の商取引において情報の非対称性が重要であることは、『ヤバい経済学』の不動産取引の件に明示されている。バザールのような市場(いちば)において、「ながめてまわる」ことが、筆者の言うように『「ながめてまわる」のは、バザール経済に適した振舞い方ではない』かどうかは、私にはまだ納得できていない。

 関連してメモしておくことは二点。第一には、邦訳の出たジョン・マクミラン『市場を創る』の原題が"Reinventing The Bazaar"であるということ。第二に、大野健一『途上国のグローバリゼーション:自立的発展は可能か』において、大野はこう書いている。

 国際機関のエコノミストには、各国で市場移行改革を指導しているにもかかわらず、市場経済の歴史的な生成過程はおろか、その定義さえも真剣に考えたことがない人がたくさんいるようである。筆者はIMFの複数の幹部職員から、「私が訪れた最貧国でも、村の市場(いちば)に行けば穀物を売買する商品がいた、国際列車で仕入れに出かける担ぎ屋がいた、だから市場経済はどこにでも存在する」というような議論を聞いた。たしかにバザール、行商人、街道の露天商などは人類史を通じて長く存在してきた。だがそのような小規模で散発的な私的商業活動は市場(いちば)であっても市場経済システムとは呼ばない。少なくとも、われわれがここで議論している市場経済システムではない。終戦直後の日本の闇市に見られたように、インフォーマル・セクターの発生は正常な市場メカニズムの結果というよりも、むしろその機能不全に対する人々の苦肉の自衛策であっる。人間は食べていかなければならない。中国やロシアがめざすのはそのようなバザール経済ではなかろう。(p.14)

 本書が2000年に出版されているのは素晴らしい。大野は、石川滋という学問的先達の記述と、ベトナムという実験場を使いながら、途上国のグローバリゼーション下での対応を叙述していった。ふりかえって、「ながめてまわる」態度を、大野風(流)に解釈すると、そのことこそが、市場経済システムの中での「正常な」対応になるのであろうし、子女のしつけとしては、「ながめてまわる」態度を涵養することが「正常な」対応になるのであろう。

 なお、個人的には「はじめてのおつかい」というテレビ番組にはあまり惹かれないでいる。なんとなく、子女が不安になって泣いたりするのをpeeping cameraで見ていることが好きになれないのだろう。あと、直感で間違っているかもしれないが、おそらくは「買い物が旅行に似ている」のではなく、「旅行が買い物に似ている」のだろう。文献としては、ギアツのバザール経済への記述を読むには、『解釈人類学と反=相対主義』の第5章「バザール経済:農民市場における情報と探索」を読めばよいということがわかった。あとは、なんとなくメディア・リテラシーを人文流に進めるのは間違う可能性が高いような気配がする。

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